回りくどい表現と弱い意思

無駄の多い表現が多用される文章を好む。思索が深いようで深くない、よくよく考えてみれば大したことを言っていない。そういう文章が好きだ。そして、自分の好みは、自分の文体にも反映される。

おれが書いた文章を国語教師に添削される日々が続いている。紙へと一生懸命書いた文章に線が引っ張られ、その先には「意味不明」「回りくどい」「端的に述べて」「全体的に不明瞭」「他人に見せる文章を書いてください」のような文言でこき下ろされる。おれはその度に、なるほど、やってられんなと思いつつ、訂正された通りに修正を加える。

修正中、回りくどい表現で何かを語るとして、なぜそのような癖が身に染みついてしまったのだろうか。そんな疑問が浮かんだ。おれはその疑問をノートの片隅に書きつけ、今文章を書こうとしている。

「端的に言えば」、おれは意思が弱いのだ。もしくは何かを語るにつけ自身がない。生まれて以来、自分に対する否定の感情が悪さをし、それが回りくどい表現に繋がっているのではないかという仮説。

村上春樹の登場人物は好きか? 「であるかもしれないし、そうではないかもしれない」相手を煙に巻く技術ばかりで、世の中を斜に構え見つめる。その先にあるのは孤独と、それに伴うもの哀しさばかりである。

おれはいつのまにやらそういう人間になってしまっているのかもしれない。意思を表明することにまとわりつく責任から逃れたい。そもそも自分の見解は間違っている。間違いを否定されることは辛い。要するにおれは傷つきたくない。楽しかれ、悲しかれ、感情が大きく動かされることは、めんどくさくただしんどいのだ。そういう年齢になったのかもしれない。

将来について考える。おれはおそらくひとりだ。たまに連絡を取り合う友人や、家族がいるものの、おれと共に過ごすパートナーや自分の子どもはいない。おれは意思が弱い。誰か特定の人と一緒にいることを続けてしまうと、おれはしんどくなる。たまに会って、近況等を語り合い、笑ってまたさよならするくらいがちょうどいい。だからおれは今後ひとりになるに違いない。

仲良くしているおばちゃんに「あなたは寂しがりやなのに、ひとりで生きていくことを選びそうね」と言われた。人の本質を見抜くのが上手い。おれは「ぼくもそうなりそうな気がしますわ」と笑いながら、煙草を吸う。吸わない人より早い速度で寿命を削りながら煙草を吸う。

冒頭で、「おれは無駄の多い表現が多用される文章を好む」「自分の好みは、自分の文体に反映される」と言った。結局おれは回りくどく自分をひた隠す自分が好きなため、本当に染みついてしまったみじめったらしい生き方が変わるような未来が見えてこない。

そうして文章を読み返して、軟弱な人間だ、いっぺん腕でも折ってみろとか思いつつ、おれは腕を折らないでいる。

 

 

火の変遷

煙草なんて最初はかっこいいと思って吸い始める。古着が好きな友だち二人は、電子煙草を吸わない。理由は「紙巻の方がかっこいいから」とのことで共通している。まあそうね。そうよね。

煙草に対するかっこよさの追求は火の変遷を辿ってみると内実がわかる。

マッチ→BICライター→ジッポ→100円ライター

以上がおれの変遷なんですけど、100円ライターに行きついてしまったんですね。ダサいやつ。吸い始めの頃なんて絶対つかわんぞ、と思ってたのにそれが普通に使うようになってしまった。

近くのコンビニにBICライターが売られなくなって、やむなしで100円ライターを使ってる。つまり、煙草が吸えればなんでもいいのだ。今やアイコスを始める始末。

ほんとは辞めたいけどね。たばこ。



蘇る記憶と、更新された性質によるポジションの変更

昨日、大学時代に働いていた塾のメンバーで体育館を借りて遊んだ。現役の塾講師もいれば、部外者もいる。雑多な人が集う中で、バスケ、バドミントン、アルティメット、ドッジボールなどで体を動かした。大学生以上にもなれば、日常的に体を動かす人の方がまれで、たるんだ肉体は悲鳴をあげる。中でも3人の喫煙者たちは特に肺がやられ、顔は真っ白、そして床にへたり込む。

バスケの試合中に足がもつれて、コケる友人。そのコケ様が酷くて、靴は脱げるわシュートしたボールはボードにすら当たらないわで、こういうところに遊びの良さを感じる。

 

おれはかつてバスケをやっていた。いわゆるミニバス。小6のころの身長が147センチだったおれはセンターを任されていた。思い返せばロングシュートが下手でボールハンドリングもままならないのが理由にあったように思う。

 

そんなわけでおれはゴール下の練習とリバウンドのポジションどりの練習ばかりしていた。ゴール下のシュートは、パスされた後ひとつドリブルを付き、ディフェンスからボールを守るような形で両肘を張りつつ、リングへと近づく。上手くポジションが取れれば、ボードにボールをあて、リングへと沈める。そんな練習ばかりしていた。

 

スポーツの幕間で、それぞれが思い思いのスポーツに興じる。おれはその中で、ひたすらゴール下のシュートを打ち続けた。今から14年前の昔の記憶が蘇ってくる。片足を軸に、自由のきく空いた足を前後左右へと振り、ディフェンスを引き剥がす。そしてゴールへとボールを置くようにシュートする。体が覚えている。楽しかった。翌日以降、確実に使い物にならなくなる肉体を尻目にひたすらシュートを打ち続けた。

 

その後、バドミントンやドッヂボール、アルティメットなどを経て、またバスケの試合をした。

経験者のおれは試合中ボール運びの役割を担う。それなりにボールを扱うことが出来るからだ。ポジションで言えばポイントガードにあたり、ボールを運んだり味方にパスをしたりする。センターと比較した時に、視野の広さが求められ、敵味方問わず周囲の人々の動きに目を配り、かつ空いている空間も把握しなければならない。正しいかどうかはわからないが、司令塔的なポジションだと思う。

 

あひるの空というバスケ漫画に出てくる花園千晶というキャラクターは、身長が190センチほどでガタイがよくかつアフロヘアーという個性的な身なりにも関わらず、ポイントガードをしている。見た目だけで言えばセンター向きだが、「自分で点を取るのがめんどくさい。人を動かす方が好き」という理由でポイントガードをしている。

体力が削られ、まともに動くことができないおれは自分で点を取りにいかず、ボールを運びパスばかりしていた。今のおれは花園千秋みたいね〜とか思いつつボールをつく。

 

大学1回のころから働き始めた塾との付き合いは8年ほどになる。かつての教え子だった生徒が今は塾講師となり、彼らももう3回生、卒業している子もいる。そんな彼らと集まって体を動かす。先輩としての振る舞いは大袈裟だが、かつて後輩ヅラをしていたおれは鳴りを顰め、それなりに周囲を気遣ったりする様になった。

バスケ試合中のポイントガート的役割とそれは似ていた。自分の今の振る舞いとリンクする役割は心地よかった。

経験者の味方が上手くゴール下でフリーになってくれた。おれはそれを見て、少し回転をかけ、ワンバウンドさせた低めのパスを出す。受け取った彼は鮮やかにゴールを決める。

 

肉体に刻まれた新しい記憶。次に蘇るのは一体いつになるんだろうかと増えた楽しみを既に待っている。

 

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朝の出来事

朝、起きたては力加減がわからない。

寝ぼけた状態で伸びた髪をぐしゃぐしゃにし、机の上に置かれてある飲みかけのピルクルを手に取る。

ピルクルを買った近くのドラックストアは、紙ストローしかおいていない。だからストローを使わずに飲む。

 

朝、起きたては力加減がわからない

口元からピルクルが溢れてしまった。パジャマは濡れて、唇が甘い。おれは笑ってしまった。

 

雑感 vol.4

「あなたは人に頼られることが何よりも幸福なコミュニケーション大好き人間」

エニアグラム診断をやってみた結果、おれはタイプ2の「献身家」だと判明した。
人から頼られるのが大好きで、コミュニケーション命。自分の時間は他人に使い、自分のことを後回しにしては痛い目をみる。大体そんな感じ。こういうタイプの人間が狂ってしまうのは、自分本位な人間に振り回されたり、周囲から除外されたりする時らしい。心当たりがあって笑ってしまった。

マッチングアプリで知り合った女の人とだらだら連絡のやり取りを続けてる時の心の粗ぶり具合ホントに酷かったですね。今はもう消したけどブログに悪口とか書いてたな。すごい根暗っぽいとは思うけどそうでもしないとやってられんくらいに荒んでた。楽しいことがあったのは確か。でも、思想の合わなさというか生きてる世界が違い過ぎるというか。おれは友だちとかに変わってると言われることが多いけど、いや、やっぱり全然普通ですよと思う。謙遜とかじゃなしに。

ブラック企業に入社して1年間働いてから辞めたけど、あれはいい経験だったなと思う。タフになった。自分の中の甘さを矯正する機会に中々ありつけず、他人を甘やかしてばかりの振る舞いがあった。人の良さみたいなものを妄信してるあどけない顔。それがぶん殴られて歪む。1年間顔を歪めるなりにやってきた結果タフになった。それが退職した今に活かされてる。
1日12~16時間労働を連日決めてたつい最近の春期講習。最終日は他の予定と合わせて39時間くらい不眠でバタバタしてた。あれおもしろかったな。不眠39時間の中には友だちの結婚式があって受付を任されてた。結婚式の2日前くらいにチャリでコケて右手中指から小指の第2関節に傷ができた。そのままでは受付なんて到底できないから急遽白手袋を用意してもらうことになったり。おもしろい。自分の人生やのにアホやなと思って笑けてくる。
しんどさになれて、それを笑いに昇華出来るくらいタフになった。
それで言うとマッチングアプリもやって良かったんですよ。自分には理解の出来ない人を垣間見た中で、どのように振る舞うのがおれにとっての正解かなんとなく感覚的にわかるようになった。善意に付け込んでくるタイプの人とか何いうても無理な人とか純粋に悪口大好きな人とか、手玉に取ってくるタイプの人とか、知的レベルが違い過ぎて底が見えない人とか。結局全部おれにはどうすることも出来なかった。もう誰ともやり取りをしてない。これは諦め。でもなんかすがすがしかったりする。
おれはおれに期待してしまっているから、なんか出来ることあるんちゃうかと思ってちょっと頑張ったりする。でも手の届かないところは確実にあって、それを知ることで自分の輪郭が明確になっていく。冬みたいな。今のすがすがしさはそれなりに頑張ったからあるんやろなと思う。いい経験ですよ。現代文の授業中の具体例で、身の回りで起きたことをよく話すんです。おれの人生が現代文に繋がってくるからホントに楽しい。無駄がない。めちゃくちゃ効率的。

こないだ解説した現代文の文章でコミュニケーションは「実践的要求に対する具体的対応で成立する」と定義されてた。筆者はその定義をした後、ユーモアとして具体的対応がずれてたらぶん殴られるよ、とお茶らけてた。そういう文章を見るとおれもお茶らけたくなる。だから元カノから呆れられた時の話を話して、具体的対応がずれた時人はこうなる。反面教師にしなさい。みたいなことを言うたりする。生徒は笑ってるからおれは嬉しい。つーかあれやね。バンドマンみたいなことしてるね。付き合ってた恋人と別れてその経験を歌詞にする的な。かたや現代文講師は具体例にする。
「だれもおれに近づくな! 具体例にしてしまうぞ!」

最近は恋人とかいいかもしれないと思ってる。今の自分の環境がすごく満たされてるから。
塾でバイトして色んな生徒と色んな話をする。勉強のこととかそれ以外のこととか。現代文を持たせてもらってるから、その予習で文章を読んで解説を作ったり、改めて勉強したりしてる。塾の先生と話をするのも楽しい。こないだマッチングアプリで性病持ちと肉体関係を持ってしまったみたいな話を聞いて笑ってしまう。人間も動物やで! って言うてた友だちのこと思い出して笑う。おれがマッチングアプリで知り合った人と一切肉体関係を持ってないことを言うとちょっと引いてた。ウケる。
大学生時代に働いてた塾にも顔を出すようになった。そこで塾講師してる元教え子の友だちに勉強の教え方を教えたりしてる。お金もらってない。おれが教えたいってのと教わりたいってのが一致したからやってるだけ。がんばっていい先生になろうね。互いに。別にお金とかもらわず、トイレ掃除したり、お金ないのに教室長にほか弁買ったりしてる。今月2万の赤字でどう金策しよかなーと思ってるんですけど、妹と大学の時の友だちが金貸したるがなと言ってくれてるので最悪媚びようと思ってる。あとはコンビニのバイト。みんな良くしてくれる。特におばちゃん。これが楽しい。おばちゃんは、お客さんがいない時にフランクフルト見て「ちんちん」とか言うてる。ウケる。あとおばちゃんはハリウッドザコシショウの物まねとかもする。まじで楽しい。名誉のために言いますけど、本当に良い人ですよ。息子のように可愛がってくれるし、気配りの出来る凄い人です。あとは友だちと遊びに行ったりしては楽しい。ゴールデンウィークの予定もどんどん埋まってる。だからすごい満たされてる今。こんなのがいつまでも続けばいいなと思うくらいに楽しい毎日。今のおれにないのはお金と恋人だけ。お金はなんとかしたい。恋人はまだ当分いいかもしれない。でもなんか今年中に出来そうな気がしてる。すごいなんとなくなんですけど。とりあえずは目の前のことをきちんとこなそうと思います。そうね。喫茶店のおばちゃんもそう言うてた。
以上を持ちまして雑感vol.4。



蹴散らせ自尊心

こないだ大学生時代の塾の教え子で今は大学生塾講師をしてる友だちに国語の教え方を教えた。そしたら「なんでそんなに能力あるのに金ないんですか」と不思議そうにするから思わず笑ってしまった。

おれが国語の教え方を教える姿を見た塾長からは、「プロになったな」との言葉をもらって満更でもない。

 

働き始めて3ヶ月ほどになる個別指導塾に慣れてきたおれは本来の持ち味を活かせる高3現代文を担当させてもらえることになり、予習して授業に臨む中で大学生塾講師からはすごいですねと褒めてもらえる。

 

調子に乗ってしまう環境が整ってる今、おれはおれで自省して伸びかけの鼻をへし折らないといけない。

 

そもそもおれが人に勉強を教えれているのは年の功による部分が大きい。生徒や大学生講師よりも早く生まれ、早く受験を経験し、長く塾講師をしている。正社員としての塾講師経験もある。年齢は27の歳で、未だに個別指導塾でアルバイトをしている状況がおかしいのだ。正社員時代に作った授業教材(手書きのへぼいやつ)とかそういう蓄積は大学生時代にはもちろんなかった。色々を経て今がある。

 

前に占い師から「あなたには蓄えてきた知識がある。それをどのように活かすかというタームに突入してるから信念を曲げないように突き進みなさい。さすれば道は開ける」的なことを言われ、あんまりピンときてなかったが、今はわかる。

 

おれの塾講師としての経験であったり、それ以外の日常での経験などを還元していくのがいいのだ。それらを笠に着て横暴的に振る舞うのではなく、後身育成的な観点を持ちつつ振る舞う。それが正解だ。

 

だからおれは中途半端な自尊を蹴散らして、あくまで謙虚にやれることをやるだけ。上には上がいるし、できることは限られてる。その中でどう過ごしていくか。おれは別に大した人間じゃない。

 

英語を担当してた生徒が定期テストの点数を30点上げた。それに対するおれの振る舞いとして正解なのは、点数アップを喜び、生徒の努力を褒める。これだけ。おれの授業が素晴らしい。おれについて来い。ではない。

 

でもまあ、塾講師なので詐欺師っぽくおれは凄いでしょという振る舞いも多少は必要だと思うので、その辺りの線引きに気をつけつつ、次回現代文の予習をしてる。多分今年、教採受からない。とりあえず通信大学の卒業を念頭において日常。

 

 

しびれ、そしてめまい

例えば、自分の過去の過ちを完全に忘却しきって日々生活していくことが可能かと考えた時に、それは不可能だとずっと囁いているやつがいる。おれはそいつと長い間暮らしており、目の上のたんこぶだとかこいつさえいなければ、と思うがそうは問屋が卸してくれない。一生付き合い続けるしかないのだ、とおれの側でおれを嘲笑う。

 

中動態という概念がある。古代ギリシア語から始まり能動態と対の関係にあった概念であるが、現在では忘却され能動態の逆は受動態になった。その中動態を実践的な形で日本語に組み込むことが出来ないかと問題提起したのが、國分功一郎である。

 

能動態は、行為者が行う行為の中で自己を外側におく。一方で中動態は行為者が行う行為の中に自己を巻きこむ。つまり、中動態では何かしらの行為を行う際、その行為にもまれる自己がいるということだ。

 

國分功一郎ハイデガーを引用する。意思という言葉に伴う積極性言い換えれば能動性を痛烈に批判したハイデガーの理屈はこうだ。意思とは行為の出発点を指すものの、人間は生まれてこの方出発点に立つことなど出来ず、他からの影響そして過去を背負って生きていくものであり途上に存在するのみである。つまり、意志が始まりを持つことなどないのである。では、意思を持って何かしらを行う時に起こっているのは一体何か、それが忘却である。

「意思することは忘れようとすることだ」

 

これまでの過去を全て忘却しきって、新たな始まりを歩んでいく。そういったものが不可能だと思いつつ生きている皆さんへ。胸がすきませんか。僕はすきました。思います。過去を忘れ去ることによって思考が不自由になる。逆にすれば、過去を忘れ去らないからこそ思考は自由を獲得すると考えることが出来る。

 

なんとなく曖昧な言葉で考えていたことに対する明確な補強。背中をぽんと叩いてこっちでいいぜと言ってくれているような感覚。大それたものではない。死に際思い出すかもわからない。

 

中動態的生き方の自覚を奨励したのはスピノザである。自己の行動を縛るものを認識する中で思考を行うことにより真なる自由が獲得できる。わかる。ほんとそうだ。

自分に意志があると思う中でのうまくいかないという懊悩は中動態的に解釈することで消えて無くなる。今ここにいるおれは、もまれ巻き込まれそれでもなんとかやっている。

 

しかーしだ。

中動態という概念そのものを無批判的に取り入れ絶対視することはまた別の縛りを生む可能性がある。そう指摘する。現状うまくいかない人に対する新たな視点の紹介。万事うまくいくとは限らない。刺さる人には刺さる。ただそれだけである。

 

 

読んだ本

日本哲学の最前線』山口尚 講談社現代新書